【交響曲第2番】
初稿による演奏で、亡きギュンター・ヴァントのお膝元でもあるハンブルクのムジークハレ(現在の名称はライスハレ)で大きな話題を呼んだ演奏会のライヴ録音。対向配置&優秀録音という好条件を背景に、次々に現れる魅力的な旋律の洪水とも言うべき作品の魅力を、雄大なスケールの中に克明に描きこんだ素晴らしい演奏です。
競合盤のティントナー盤とアイヒホルン盤はやや枯れ気味でしたが、このシモーネ・ヤング盤での生き生きと躍動し、クライマックスでは雄渾な音響を轟かせるパワフルなアプローチは、ブルックナーの初期作品にふさわしいもの。
すごいのは楽員たちの表現力の豊かさで、いったいどれだけさらったのかと思わせるほど細かい部分にまで気持ちが入っており、指揮者との良好な人間関係を思わずにはいられません。第1楽章の第3主題(呈示部[03:17-]、展開部[08:09-]、再現部[14:16-])などほのぼのとした旋律もリズムが良いのでワクワクするほど魅力的に演奏されています。一方、第4楽章では動と静のコントラストも強烈に、指揮者、楽員ともども途切れることのない集中力で力強い音楽を構築してゆきます。
シモーネ・ヤングが取り上げた初稿は、オットー・デッソフ指揮ウィーン・フィルによって試演された、作曲者の原意が最も強く反映されたヴァージョンであり、ウィリアム・キャラガンが校訂した楽譜を用いています。この初稿はやがて、デッソフの「長すぎる」という発言と、ヨハン・ヘルベックの「聴衆に合わせるべき」という助言を受けて、スケルツォの反復省略、終楽章56小節短縮、一部差し替えという形で正式に初演され(第1稿初演版:アイヒホルン)、その後、大規模なカットや差し替え、休符の削除といったさまざまな改訂やミックスを経て、現在一般的な第2稿ハース版(朝比奈、バレンボイム&CSO、シャイー、エッシェンバッハ、ハイティンク、インバル、コンヴィチュニー、マズア、スクロヴァチェフスキ、シュタイン、ヴァント、ツェンダー)や、第2稿ノヴァーク版(ジュリーニ、カラヤン、ヨッフム、D.R.デイヴィス、ロジェストヴェンスキー、ショルティ、若杉)、第2稿キャラガン版(バレンボイム&BPO)という形に姿を変えてゆきます。
つまりブルックナーの第2交響曲で最も情報量が多く、かつまた「パウゼ交響曲」ともあだ名されたパウゼの効果がよくあらわれているのがこのヴァージョンなのですが、そもそもこの初稿の校訂を、レオポルト・ノヴァークがウィリアム・キャラガンに依頼したのが1987年の話で、1990年には簡易な形で出版に漕ぎつけるとは言うものの、正式なヴァージョンの出版は2005年になってしまったという出版事情の問題もあり、録音はこれまでにアイヒホルンとティントナーのものしか存在しませんでした。ということで、このリリースは、正式ヴァージョン出版後の演奏という点からも大いに歓迎されるところです。
演奏時間比較タ:
ヤング :20:40+10:47+19:32+20:23=71:22(2006)
ティントナー:20:50+10:53+18:00+21:19=71:22(1996)
アイヒホルン:19:40+10:59+15:42+20:55=67:16(1991)
初稿による演奏で、亡きギュンター・ヴァントのお膝元でもあるハンブルクのムジークハレ(現在の名称はライスハレ)で大きな話題を呼んだ演奏会のライヴ録音。対向配置&優秀録音という好条件を背景に、次々に現れる魅力的な旋律の洪水とも言うべき作品の魅力を、雄大なスケールの中に克明に描きこんだ素晴らしい演奏です。
競合盤のティントナー盤とアイヒホルン盤はやや枯れ気味でしたが、このシモーネ・ヤング盤での生き生きと躍動し、クライマックスでは雄渾な音響を轟かせるパワフルなアプローチは、ブルックナーの初期作品にふさわしいもの。
すごいのは楽員たちの表現力の豊かさで、いったいどれだけさらったのかと思わせるほど細かい部分にまで気持ちが入っており、指揮者との良好な人間関係を思わずにはいられません。第1楽章の第3主題(呈示部[03:17-]、展開部[08:09-]、再現部[14:16-])などほのぼのとした旋律もリズムが良いのでワクワクするほど魅力的に演奏されています。一方、第4楽章では動と静のコントラストも強烈に、指揮者、楽員ともども途切れることのない集中力で力強い音楽を構築してゆきます。
シモーネ・ヤングが取り上げた初稿は、オットー・デッソフ指揮ウィーン・フィルによって試演された、作曲者の原意が最も強く反映されたヴァージョンであり、ウィリアム・キャラガンが校訂した楽譜を用いています。この初稿はやがて、デッソフの「長すぎる」という発言と、ヨハン・ヘルベックの「聴衆に合わせるべき」という助言を受けて、スケルツォの反復省略、終楽章56小節短縮、一部差し替えという形で正式に初演され(第1稿初演版:アイヒホルン)、その後、大規模なカットや差し替え、休符の削除といったさまざまな改訂やミックスを経て、現在一般的な第2稿ハース版(朝比奈、バレンボイム&CSO、シャイー、エッシェンバッハ、ハイティンク、インバル、コンヴィチュニー、マズア、スクロヴァチェフスキ、シュタイン、ヴァント、ツェンダー)や、第2稿ノヴァーク版(ジュリーニ、カラヤン、ヨッフム、D.R.デイヴィス、ロジェストヴェンスキー、ショルティ、若杉)、第2稿キャラガン版(バレンボイム&BPO)という形に姿を変えてゆきます。
つまりブルックナーの第2交響曲で最も情報量が多く、かつまた「パウゼ交響曲」ともあだ名されたパウゼの効果がよくあらわれているのがこのヴァージョンなのですが、そもそもこの初稿の校訂を、レオポルト・ノヴァークがウィリアム・キャラガンに依頼したのが1987年の話で、1990年には簡易な形で出版に漕ぎつけるとは言うものの、正式なヴァージョンの出版は2005年になってしまったという出版事情の問題もあり、録音はこれまでにアイヒホルンとティントナーのものしか存在しませんでした。ということで、このリリースは、正式ヴァージョン出版後の演奏という点からも大いに歓迎されるところです。
演奏時間比較タ:
ヤング :20:40+10:47+19:32+20:23=71:22(2006)
ティントナー:20:50+10:53+18:00+21:19=71:22(1996)
アイヒホルン:19:40+10:59+15:42+20:55=67:16(1991)
【交響曲第6番】
交響曲第6番は、第7番と同じく、前半2楽章が後半2楽章に較べてかなり大規模なバランス配分になっているのが特徴。第2楽章が荘重なアダージョというのも共通ですが、第1楽章はごつごつした第6番に、流麗な第7番と対照的でもあります。シモーネ・ヤングは、パワフルな両端楽章とスケルツォをエネルギッシュに演奏、第2楽章第3主題での葬送を思わせる旋律も美しく聴かせています。
交響曲第6番は、第7番と同じく、前半2楽章が後半2楽章に較べてかなり大規模なバランス配分になっているのが特徴。第2楽章が荘重なアダージョというのも共通ですが、第1楽章はごつごつした第6番に、流麗な第7番と対照的でもあります。シモーネ・ヤングは、パワフルな両端楽章とスケルツォをエネルギッシュに演奏、第2楽章第3主題での葬送を思わせる旋律も美しく聴かせています。
【交響曲第8番】
第1稿使用。第1楽章の最後が大音量で終わるというこの初期ヴァージョンは、第2稿とはまた違った野趣に富む荒っぽい部分が魅力的でもすし、ある種のくどさがブルックナーらしくもあります。
【交響曲第9番】
ブルックナー研究で知られる音楽学者、ベンヤミン=グンナー・コールス[1965- ]校訂による「ブルックナー協会版全集」の一環として2001年に出版された新クリティカル・エディションを使用。従来のオーレル版、ノヴァーク版に代わるものとして、誤植の修正作業のほか、自筆譜以外の資料にもあたって綿密な校訂が施されており、ブルックナーの意図をより細かい点で実現したものということです。
第1稿使用。第1楽章の最後が大音量で終わるというこの初期ヴァージョンは、第2稿とはまた違った野趣に富む荒っぽい部分が魅力的でもすし、ある種のくどさがブルックナーらしくもあります。
【交響曲第9番】
ブルックナー研究で知られる音楽学者、ベンヤミン=グンナー・コールス[1965- ]校訂による「ブルックナー協会版全集」の一環として2001年に出版された新クリティカル・エディションを使用。従来のオーレル版、ノヴァーク版に代わるものとして、誤植の修正作業のほか、自筆譜以外の資料にもあたって綿密な校訂が施されており、ブルックナーの意図をより細かい点で実現したものということです。
ここで初版使用というのは第8番と第2番。前者は普段聴くものにはない素材が出てきたりするし、第2番は第2楽章と第3楽章が入れ替わっていたりする。正直第2番は自分の中で消化しきれていない。第8番その他の指揮者で聴くこともあるので、やはりどこか様子が違うことがわかる。
ブルックナーは信念があまりなく、他人から指摘を受けるたびに改訂してしまうから、後世に混乱を起こした作曲家と云わざるをえまい。対照的にフランクなんかはイングリッシュ・ホルンやハープを交響曲に使ったので、愚か者と罵倒されてもどこ吹く風だったというから、同じ作曲家でもずいぶんと違うものである。個性と云えばそれまでだが、ここまで自信がないのは呆れるしかない。家族もなく支えてくれる人が身近にいなかった不幸なのか。
シモーネ・ヤングの指揮する音楽に初めて接したのは実はオペラだった。プフィッツナーの「パレストリーナ」の映像であった。その時もしっかりした音楽を紡いでくれたので、彼女の指揮に興味を覚えたものである。大きなオーケストラを束ねるのは並大抵ではない。只者ではない。